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四国の東に位置する徳島県は、北に阿讃山脈、西に四国山地がそびえ、東には瀬戸内海から太平洋に繋がる紀伊水道を望む。
また四国山地を源とする四国三郎こと吉野川を筆頭に、那賀川、海部川などの清流が流れる自然豊かな土地である。
この徳島に人が住み始めたのは氷河期にあたる約2万年前と言われており、縄文時代・弥生時代へと河川領域を中心にい
くつかのムラがあったことを証言する多くの遺跡が発見されている。稲作が盛んになると有力な人物が地域の首長を務めるよ うになり、彼らを埋葬した古墳が造られるようになった。
平家が隆盛を誇った12世紀には阿波民部大夫成良がこの地で勢力を振るうようになる。そんな中、屋島に陣をとる平家を攻め
るために源義経が徳島市南部から小松島市にかけての海岸から上陸して屋島に攻め入ったという伝説が残されている。 一方、源氏にやられた平家の落人が、祖谷地方へ流れてかずら橋や美濃ヶ淵など多くの落人伝説を残している。
鎌倉時代には、阿波国外の武士である佐々木氏や小笠原氏が守護となった。
室町時代には足利氏の一族である細川氏が阿波国守護となったが、応仁の乱以後は、細川氏の支配が弱まり、有力な家臣で あった三好氏が台頭。三好長慶のときには、畿内に進出して幕府の実権を握るほど隆盛を誇った。 しかし1582年、土佐から振興してきた長宗我部元親により三好氏の支配は終焉を迎える。
その後、大坂で天下を握った豊臣秀吉は、家臣である蜂須賀家に紀伊水道を挟んだ重要な阿波国を与える。
大坂冬の陣で功績を挙げた蜂須賀家は、淡路も含めた25万7000石の大名となった。 江戸時代になると藍作が盛んに行われるようになったほか、塩、砂糖、煙草などが主要な産業として発達した。
明治4年の廃藩置県により「徳島県」を設置。一時「名東県」となったが、明治13年再び「徳島県」となった。
第一次世界大戦時には、鳴門市のドイツ人捕虜収容所では松江豊寿所長を始めとする人道的な振る舞いからドイツ人と地元民との交流が深まり、現在まで良好な関係を築いてきている。 |